なぜ日本語ではいけないのでしょう?

パトカーが走っていました。横にPatrol Car と書かれ、⚪️⚪️Police とこれまた英語。

どうして? ここは日本であるのになぜ、日本語で書かないのでしょう? ⚪️⚪️警察 と書かない理由は一体何? それほど英語で書くことに価値を見出しているならまず、日本語で書いておき、その下に英語で書けば良いものを。

英語で書くことを優先する気持ちの裏にはどういう心があるのでしょうか?

1)英語ができることが必要だから<ーそれなら日本語を先に書いてから書けばいい

2)英語で書くほうが格好いい?<ーいやいや、それはないでしょう。どちらのほうが格が上とか下とかそういう問題ではありませんし

3)英語で書くことを上のほうから求められている?<ー一体誰が? 何を考えているのやら

日本語というれっきとした言語がありながら英語を使いたがるのはまるで日本を使うことを卑下しているようにすら思える時があります。

どっちだっていいじゃない、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。自分の国の言葉はもっと大切にしないといけないから。言葉に対してもっと敏感である必要を感じなくてはならないから。自分の国の伝統、習慣よりも他の国の習慣を大切にするのであればその国に住めば良いと極端に言ってしまえばそういうことになりますよね。日本の外に出て暮らしてみて始めて自分の国がどういう国であるのか、どこが違って何が大切なのかが見えてくるからです。旅行ではちと短すぎます。

旅行は日程が限られていますし、目につくのは良いところやら綺麗なところばかり。実際に生活してみるともっともっと深い部分が見えてきます。

お友達の家に遊びに行ってそこがうらやましいからといってそこのお家の真似ばかりしますか? それでは自分のお家の持っている独自の良さは失われます。

やたらにカタカナで名前をつけるのをそろそろやめて日本語の美しさを日本国民自身が感じ取れなくてはいけないのにとても残念です。

 

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予習をすればよかった

英語に限らずでしょうが、教えていて嬉しいのは生徒が私が言いたいことをわかってくれたときですね。

今日、TOEICのクラスでいろいろ言葉を教えていたら一人の生徒が

「あ〜、予習してくればよかった。予習していないからわからないです」

と叫び声ではありませんが大きい声でため息まじりに言ったのです。

「予習がどんなに大切かわかった?」と聞くと

「はい。これから予習してきます」との返答。なんと嬉しい!

彼のこの気持ちが少しでも長く続きますようにと願わずにはいられませんでした。

クラスに行く前にはやはり予習をして、帰ったら復習をする。そういう習慣をつけておいて欲しいと仕事が忙しかったりしてなかなかそうはいきません。でも、できるときは必ずやる。もしくはできるだけ時間を作るようにするという努力ができる生徒はやはり力がついてきます。

予習してきたことで次の授業の内容がすらすら入ってきたら嬉しいですものね。もっとやる気につながります。やる気が出れば覚える量も増えるでしょうし。

今日のような日は教える仕事をしていて本当によかったと思えます。

 

TOEICのReadingは忍耐

TOEICのReading sectionを少しやってみました。英語のテストありながら、これは忍耐のテストとしか思えません。これって、75分間、ひたすら読むわけですよね。だんだんやる気は減っていきますし、目は痛くなるし、一度に問題を全部解かせる理由がよくわかりません。

すばやく読めて仕事に反映させられることと、75分間、様々なメールやら文章を読み続けて正解を出すこととどこまで関係しているのでしょうね。

問題を作る方もよくやられたなと感心です。

それではどんな問題にしたらよろしいかと問われるとこれは少し困ります。一度に多くの人の英語力(いや、これは英語力というか忍耐力、集中力、そして視力かな)を測らなくてはならないので、こういうテストの形をとらざるを得ないのかもしれません。しかし、うーん、なんか間違ってません? だって、コミュニケーションのテストでしょう? これでは一方通行のテストではありませんか。

目も痛くなったし、頭も疲れたのでこれから買い物に出かけてきます。

いろいろと曖昧な日本語

日本語とは本当に便利で、別に主語を省いても相手に意味が通じればよく、また、述語がなくてもすごく変という感じを持たないことが多いですよね。

それに比べて英語は主語、述語がはっきりしないと文章として成り立ちません。まぁ、会話の上では名詞だけで通じますけれど。

一番困るのが翻訳をしている時。この文章の主語は一体なんなのだろう? 自分の解釈と書いている人の解釈に違いがあったらまずい、と確認をしますが、それを面倒臭いと思われる方もいいたりするのでなかなか苦労します。「それくらいわかってよ」と言われても、違う意味になってしまったらあとで困ります。わかりにくい文章を書かないで欲しいなぁと思うのですよ。

そして、「こういう」とか「そういう」とか指示代名詞も多い言語ですよね。同じ言葉を繰り返すことなく言えるという点では本当に便利。

まぁ、言葉は本当におもしろいです。

英語について一言

世界的に行われた英語のテストで日本はまたまた下位に位置してしまったとか。

語学(に限りませんが)を習得することは本当にむずかしいことです。簡単にできる程度の英語ではとても通じません。

それではどう、何を勉強したらいいのかというの誰もが持つ疑問。レベルをチェックするためにテストはありますよね。TOEIC, TOEFL などが。どの程度、英語を知っているかはテストの点数から測り知ることはできたとしても、コミュニケーションのレベルはどこまで判定できるかというと疑問。TOEIC高得点=英会話オーケーにはならないという悔しさがあると思うんですよ。

でも、他にこれといったテストもないし、これらのテスト結果が意外とあちらこちらで重宝されているからさらに英語の勉強が間違った方向に行っているように思います。

さて、どうするか?

多くの方々があれだけお金と時間をかけているのになぜ下位にしかいられないのか、これ、もう一度英会話学校やら英語学校そして文科省のお偉方さんたち、考えてみたらどうでしょうね。効率的にお金と時間を使うことって大切ですもの。皆がやっているからとか、まず脱さないといけませんね。

自分でできることはまず自分で。基礎をしっかり。そこが一番大切。土台があって初めてそこから上にきづきあげられるのですもの。

 

なぜ「ハンドレール」?

ユニクロのエスカレータ乗り場にこう書いてありました。

「ハンドレールにおつかまりください」

なぜ、「てすり」ではいけないのか? なぜ「ハンドレール」なのか?

英語を日常的に使わせたいのかどうかわかりませんが、私たち日本人にはきちんとした「日本語」があります。それをわざわざ変なカタカナ語にすることは愚かしいと私は思っています。

英語を勉強するのはもちろんよろしいこと。外国語の勉強に力を入れるのはそれぞれが一生懸命すればいい。それと今まであった日本語を英語もどきに変えることは全く別物。

自分の国の言語を平気で別の国の言語に入れかえようとする国は前代未聞、と私は思います。いったい、自分たちの日本人という意識はどこにいってしまったのやら。日本語しかできないことは恥ずかしいことではありません。

アメリカ人の多くは英語しかできません。それと同じこと。たまたま英語が世界で使われているだけといるから彼らは1言語しか話さなくても国際人のように取り扱われるのですよ。

それなら日本語と英語と両方きっちり話せるバイリンガルの方がずっと国際人だと私は思うのですがいかがでしょうか?

 

日本語はステキ

日本語と英語の行ったり来たりの生活をしていると二つの言語の表現の違い、もしくは論理の違いを感じてとてもおもしろいと感じることが多々あります。

先日、あるショールを編み上げて端の始末をしていました。最後だからつい気を抜きたくなりますが、きちんと仕上げないと出来上がりが全然違うんです。きつく始末してもゆるすぎてもダメ。

そんなことを考えながら始末をしている時にふと思ったのが、日本語ならば

「すそが平らにならない」から始まり
「すそがビラビラしてしまう」とか
「すそが波打っちゃって」
「すそが平らにならなくてふわふわしてる」いろいろ思いつきますが、

英語だと
“The edge is not flat”
“The edge looks wavy” くらいしか思いつかない。。

私の英語力不足なのかもしれませんが、日本語というのはとにかく表現がこれでもかこれでもかとあるんですよ。日本語を教えている時にもすごく感じます。逆に教えにくい。だって、あまりにたくさんの言い方があるのですもの。

私はこの二つの言語しか知りませんからきっと、日本語のようにいろいろな表現を持つ言語も他にはあるのでしょうね。こんな言語を母国語に持つ私たち、日本語の素晴らしさを自分たちがもう一度認識しないといけませんね。