自分が好きな趣味

この歳になって思うこと「自分が好きな趣味に出会えて本当に良かった」

趣味ですから自分が好きなことと思いますが、中には、

「お友達がやっているから」とか

「今、この趣味が流行っているから」という理由でなんとなくそれを趣味にしている方も少なくないようです。

幼稚園のママ友とか、職場でのお付き合いで始めてみてそれが好きになれればそれはラッキーですよね。でも、そのグループが楽しいものだからやっていることは今ひとつだけれどそこから抜けたくない、というのはちょっと悲しいです。その気持ちはわかりますけれどね。

他に、材料を買ってしまったとか、先生も良い人だから、と思い当たる理由ありませんか?

ただ、長く続けていくためには「やっていることが好きである」というのはとても大切なこと。好きだから長くやり続けられる、ということだと思います。

なんて言ってみたものの、やっていることよりもまわりの人とのお付き合いの方が大切だからという方もいらっしゃるんですよね。もしかして私のよけいなおせっかいかな?

自分が好きなことは一人でもやりますし、お勉強だって苦になりません。そこなんですよ。一人でどれだけ楽しめるか? グループでやってももちろん楽しいけれど、一人で集中してするのはこれまた楽し。

やっぱり、自分が好きな趣味をぜひさがしましょうよ。見つかりそうでなかなか見つからないのが趣味のようですよ。

広告

平等と言われても

これは、塾の講師をしている友人から聞いた話です。

彼女が教えている塾では年に数回、面談なるものがあるそうです。生徒だけであったり、親と生徒の両方であるそうなのですが、決められた日時に行います。

たまたまその日に来れなかった人は改めて日程を合わせるのが困難な為に、普通の授業中に10分とか15分抜け出して面談をするのだそうです。塾側は全員に面談を行わないと不公平になるからと言っているとか。

友人は愚痴ります。いろいろな理由があって来れないことはあることはわかるけれど、授業が10分、15分短くなるとその日に教えたかったことが中途半端になると。また、決められた日にもしかしたら都合をやりくりしてきた生徒、親御さんたちもいるかもしれない。それなのに、来なかった人の為に生徒たちが受けられるべき授業が受けられなくなる(15分とか短くなること)のはこれまた不公平ではないかと。

確かに。ずっと前から予定されていた日時に来ない人は緊急の場合を除いて別に面談をしてもしなくても良い、と考えてしまってよいのかなぁと思ってみたり、違うかなぁと思ってみたり。

別の日に受けられるなら面談の為だけにわざわざ行くことないしね、と思いいい加減な気持ちで来ない人が出てきたらそれは人の迷惑を考えない自分勝手な行動。それを「不公平を防ぐ為」となんだか丸尾くんみたいな学級委員っぽい意見で許していいのでしょうかね。うーん、わからん。

仕方なく(?)、私は彼女にケーキをご馳走したのでありました。

履歴書書くのはむずかしい

さて、履歴書を書きましょう、と思い立ったものの、いざ書き始めるとむずかしい。

まず、学歴でうーん。いったい、何年に入学して卒業したのはいつ? と指折り数える始末。なんといってもずーっと昔のことですからもう忘れてしまいました。しかし、間違っても学歴詐称だけはしたくありません。

それに、私、父の転勤で高校中退、編入、大学中退、編入をしているので、これを全部書くと欄がいくつあっても足りません。

アレヤコレヤ書いて、職歴も並べ始めたら日が暮れてしまいました。

年齢を書かせ、性別を書かせ、写真も貼らせるというのには驚きましたがこれも仕方がないのでしょうね。

だいたい、定年を70歳にまで伸ばそうと言いながらその受け皿が準備してなかったら高齢者は再就職もできません。定年が70歳までと言われても同じ職場で70歳まで勤め上げられる人がどれくらいいるというのでしょう?

まだ、そこまで手が届きませんがそうはいっても誰でも同じように年をとって行きますから、明日はわが身ですよ。

無事に書き終え、メールで送るのであればとりあえず写真は失礼してしまおうかしらね、といつものいい加減が出ています。

でも、履歴書から何がわかるというのでしょうね。プロの方に教えていただきたいです。

親切と過剰親切の境目

困っている人には親切に。まわりの人の気持ちを考えて親切に。これらは当然のこと。お年寄りが乗ってきたら席をゆずるとか道に迷っている人がいたら声をかけて差し上げるとか、いろいろ私たちの身の回りにはできることがたくさんあります。

これは本当にすばらしいこと。生きて行く上で大切なことです。

しかし、先回りしてこれがあったら便利だろうとか、これをするのが親切だろうという、過剰親切はどうなのでしょう? おもてなし、という言葉が頻繁に使われていてその言葉の裏側に見え隠れしているのが過剰親切。

一時期、過保護とかそんな言葉もありました。それに近いものが最近見えています。

日本国内に住んでいると手取り足取りいろいろ親切にしていただくことが多く、表現は悪いですがぬるま湯に浸かっている気にもなります。これでは外国に出たら冷水を浴びることになるのではないかと危惧をしないでもありません。外国では自分の思うように行くことなどほとんどなく、それに向かってチャレンジできる人にならなくてはいけないのに、こんな優しい国の国民は冷水に対する免疫がなさすぎる国民になってしまうのではないかしら?

「優しく、親切に、温かい心を持って」とてもすばらしいことです。でも、やはり「過ぎたるは及ばざるが如し」と感じる今日この頃です。

いい加減なことは言えない

ブログを書いていて思います。いい加減なことは書いてはいけない。パターン名、編み方、毛糸などの情報は自分でしっかり調べてから書かなくてはならない。それは基本中の基本。

先日、ご近所の方と話していた時に、彼女は

「人とお話をする時に飯加減なことは言えないからちゃんと調べてからお話するのよ」

な、なんと。おしゃべりをする時までそこまで考えていらっしゃるとは。

うろ覚えな記憶を適当に話すのはその方は嫌いみたいです。そう言われてみれば何かを話す時に「多分」とか「わからないけど」とか「誰かが言っていたけれど」ばかりの人って必ず近くにいるでしょう? それを聞いて人がもし、その話をまるで事実のように話してしまったら連絡が悪い伝達ゲームのようになってしまいそう。

自分の意見なら自分の意見だと。そしてニュース、どこかのウェブサイトで読んだものならそうと、うわさ話程度ならその程度のものであると言えればいいけれど、会話をしている時に聞いている側がどこまでそれを受け入れるかも疑問。

いずれにしても、あまりいい加減なことは書いたり話したりように気をつけましょうよ。フェイクニュースなんて言葉もあるくらいですしね。ということは、きちんと読めないと正しい情報について話せないということか。。。

見直しの難しさ

私はあまり見直しが得意ではありません。

子供の頃からテストをちゃんと見直さなかったために点数が低くなったりしてよく叱られました。「ちゃんと見直さないから」という言葉は耳にタコができるて破裂するほど聞きました。

このブログも一度書いて、また見直してなんてほとんどしません。書いたらすぐにポストしまうのでお見苦しい点がたくさんあるのではないかと今、冷や汗が出ています。

なぜ、こんなことを思い出したかというと、ここのところ、推薦状を書いたり、自分のちょっとしたものを書いたりしていたのですが、さすがにこれらのものは見直さないわけにはいきません。ということで1度目を通し、「あらあら、こんなに間違いが」。今度は大丈夫だろうとまた、見直すと「え、ここも間違ってたわ」。主人に頼むと「こんなに間違ってるし、ここ、言ってることがわからない」

自分ではわかっているつもりで書いているから説明が足りなかったり、こう書いているだろうと脳細胞が自分に言っているものですからそういう目で文章を見てしまうのでしょうね。だから、間違いに気がつかない。

皆さんも、こんな経験ありません? どこかに電話をして相手の人たちはいつも返答している内容だからやけに早口で、業界用語などを交えて話され、聞いている側は「?」 話している側はわかっていることばかり話すからそれほどていないな説明をしないし、聞いている側は説明してもらわないとわからんしと。

考えてみたら、自分が思い込んでいることもそうかも。自分が正しいとか、そうに違いない、と思ってしまうと先入観に邪魔されて他の人の意見が聞けなくなったり、直したり、変更することに抵抗があったりするのかもしれませんね。

気をつけなくては。提出した推薦状の誤字、脱字が気になり始めました。

軽井沢のりんご

りんごの名産地、長野県にあるのが軽井沢。我が家のマフィン嬢もおりんごは大好きですし、せっかく軽井沢に来たのだからおりんごを、と思って旧軽銀座を歩いても、目につくのは

「ソフトクリーム」

「りんごサブレ」

「レモンケーキ」などのお菓子、そして

「アウトレット」などなど。

観光客のために作られたお菓子であろうし、おいしいものもあるのでしょうが、その陰に隠れてしまうのが農作物、民芸品。そして姿を消していくのが昔ながらの商店たち。旧軽銀座の入り口近くの八百屋さんでおりんごを買いました。この八百屋さんだっていつまでお店を続けられるのでしょう?

これではどこに行っても同じようなお店が並ぶ、個性も何もない観光地になってしまいそう。

民芸品一つを完成させるのにかかる時間、費用を考えたら、価格は決してお安い物とはいえないかもしれないけれどそこに凝縮されている日本の文化、技術をなくさないためにも、そういうお店をいかにして保っていくかは消費者側の私たちだって真剣に考えなくてはならないはずです。

どこに行っても食べて歩いて、同じようなお土産を購入してでは、なんとも寂しいではありませんか。どこに行っても毛糸屋さんは目に入りませんね。