なぜ日本語ではいけないのでしょう?

パトカーが走っていました。横にPatrol Car と書かれ、⚪️⚪️Police とこれまた英語。

どうして? ここは日本であるのになぜ、日本語で書かないのでしょう? ⚪️⚪️警察 と書かない理由は一体何? それほど英語で書くことに価値を見出しているならまず、日本語で書いておき、その下に英語で書けば良いものを。

英語で書くことを優先する気持ちの裏にはどういう心があるのでしょうか?

1)英語ができることが必要だから<ーそれなら日本語を先に書いてから書けばいい

2)英語で書くほうが格好いい?<ーいやいや、それはないでしょう。どちらのほうが格が上とか下とかそういう問題ではありませんし

3)英語で書くことを上のほうから求められている?<ー一体誰が? 何を考えているのやら

日本語というれっきとした言語がありながら英語を使いたがるのはまるで日本を使うことを卑下しているようにすら思える時があります。

どっちだっていいじゃない、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。自分の国の言葉はもっと大切にしないといけないから。言葉に対してもっと敏感である必要を感じなくてはならないから。自分の国の伝統、習慣よりも他の国の習慣を大切にするのであればその国に住めば良いと極端に言ってしまえばそういうことになりますよね。日本の外に出て暮らしてみて始めて自分の国がどういう国であるのか、どこが違って何が大切なのかが見えてくるからです。旅行ではちと短すぎます。

旅行は日程が限られていますし、目につくのは良いところやら綺麗なところばかり。実際に生活してみるともっともっと深い部分が見えてきます。

お友達の家に遊びに行ってそこがうらやましいからといってそこのお家の真似ばかりしますか? それでは自分のお家の持っている独自の良さは失われます。

やたらにカタカナで名前をつけるのをそろそろやめて日本語の美しさを日本国民自身が感じ取れなくてはいけないのにとても残念です。

 

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探している箱が見つからない

やってきました113個の箱。さすが日本の引越し業者。あまりの素早さに舌をまく暇もなく運び込まれた箱にチェックを入れ、1時間後には運び込み終了。家具はほとんど梱包を解いて運び込まれたので早かったんですね。アメリカの業者ではこうは行きません。荷物が多かったせいもありますが、引っ越すときには4日間かかり、搬入にも少なくとも半日はかかりました。それに比べるとこの早さはすごい!

と感激する間もなく、箱を開け始めたんです。できるだけ箱、紙を持って帰ってもらおうと思って。がんばりましたよ。キッチン用の大きめの厚みがあるダンボールはすべて業者さんに渡すことができたんです。

しかし! しかしです。一番欲しかった編み針がどこに入っているかわからない。この番号であろうという番号を探すもののどんどん下から積み上げられているから奥の下の方だったら再会するのに少なくても1週間はかかりそう。あ〜。きちんと番号を控えて覚えておけばよかった。大後悔です。

こうなったら悔しいから明日は総出でと言っても私一人ですが編み針を探し出します。毛糸は出てきてますよ。うれし〜。久しぶりの再会ですからお互いに感激しています。

これは犬を飼うな、ということですか?

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こんな注意書きが塀にぶら下がっているのを発見しました。

犬のフンを取るのが飼い主の責任であるのは当たり前のこと。おしっこをした後には水で流します。しかし、

「トイレは散歩の前にすませましょう」ですって? それは無理な話でしょう。トイレを済ませるために散歩に出るワンコたちは多いと思うのですが。

私たちはだんだんと「こうあるべきだ」とか「こうしないのは許せない」など気持ちが狭くなってきていませんか? その割に自分だけには寛容だったりしてね。

考えてみれば排泄物をその辺に放りっぱなしにしている人間が多いからこういう看板がでるのでしょうか? とすると、原因は人間? 人間がきちんと片付けていたらこんなことにはならなかったかも。

生きているもの誰でも排泄はします。それを片付ける知恵があるのは人間だけですよね。犬たちに生理的な要求をどうこうしろというのは所詮無理な話。犬たちとどうしたら楽しく、人に迷惑かけずに生活していくかを考えられるのも人間。犬が好きな人も嫌いな人もお互いが気持ちよく生活できるように努力できるのだって人間だからこそ。

動物愛護の精神というのはどういうのをいうのでしょうね。人間の都合にだけ合わせることを言うのかな? 「自分の都合」ばかり先に立つ生活は息苦しい生活だと感じます。

犬だけに限りません。運動会の音楽、ご近所のピアノの音、言ってしまえば自転車の乗り方だってそう。相手に不寛容になりつつある自分がもしいたら一度立ち止まって考えなくては。

それにしても練馬区保健所の方、何を考えているのでしょう?

履歴書書くのはむずかしい

さて、履歴書を書きましょう、と思い立ったものの、いざ書き始めるとむずかしい。

まず、学歴でうーん。いったい、何年に入学して卒業したのはいつ? と指折り数える始末。なんといってもずーっと昔のことですからもう忘れてしまいました。しかし、間違っても学歴詐称だけはしたくありません。

それに、私、父の転勤で高校中退、編入、大学中退、編入をしているので、これを全部書くと欄がいくつあっても足りません。

アレヤコレヤ書いて、職歴も並べ始めたら日が暮れてしまいました。

年齢を書かせ、性別を書かせ、写真も貼らせるというのには驚きましたがこれも仕方がないのでしょうね。

だいたい、定年を70歳にまで伸ばそうと言いながらその受け皿が準備してなかったら高齢者は再就職もできません。定年が70歳までと言われても同じ職場で70歳まで勤め上げられる人がどれくらいいるというのでしょう?

まだ、そこまで手が届きませんがそうはいっても誰でも同じように年をとって行きますから、明日はわが身ですよ。

無事に書き終え、メールで送るのであればとりあえず写真は失礼してしまおうかしらね、といつものいい加減が出ています。

でも、履歴書から何がわかるというのでしょうね。プロの方に教えていただきたいです。

列は列を呼ぶ

不思議なもので長い行列ができているお店は人々の目に止まり、さらに行列が長くなります。並ぶのが好きでない私も「気になる」そして、「あとでもう一度来てみよう」もしかしたら行列が短くなっているのではないかというかすかな期待を持って。

もちろん、いつもいつも行列ができているお店は当然のごとく(?)列に並ばずには入ったり買ったりできません。並ぶのを楽しんでいるのだろうか? と思いながら横を通り過ぎます。

並びながら通り過ぎる人たちを観察するのはなかなか一興があるんですよ。

「何、並んでいるの?」と聞く人あれば

「ここ、有名なのよね。並んでみる?」そして

「ネットで見たことがあるある。こんなところにあったんだ。並ぼう」

「今日は時間がないから場所を覚えておいて次回かならず来ようね」なんてさまざまです。

じゃあ、並んで買った人、食べた人、100%の人が満足するのでしょうかね? これだけの人が並んでいたのだから美味しいに違いない、という先入観が働いたりしないのかしら?

アメリカ人も行列が好きですが、何を並んで買ったかなぁと思い出すと、シカゴでドーナツとカップケーキ。ニューヨークでもドーナツ。 それくらいかしら。そうそう、毛糸を買うのにお金を払うために長く並んだ経験は少なからずありますね。

「美しい⚪️⚪️ 」「美女⚪️⚪️」が通用するなんて

テレビを見ていた驚くこと。「美しすぎるスケーター」「美しい柔道家」「美女アナ」

こういう言葉がメディアに普通に通用しているのは驚くこと。スケーターにしろ、柔道家にしろ、強いこと、勝てることが大切なことであり、それと「美しい」はまったく無関係。

「外国では」「海外では」と諸外国で人気の店やら商品やら伝えるのが大好きなテレビ局がなぜ今だに、こういう言葉を平気で使っているのか。

男女平等が言われる今、性別、年齢、職業、肌の色その他に関わらず平等であることを訴えているらしいメディアが外見を形容する言葉でスポーツ選手をはじめとした職業についている女性を紹介するのは恥ずかしいですね。

そしてこれが日常となり何もおかしいと感じなくなっている感性はどこかで変えていかなくてはならないのでは? あちらこちらでグローバル化、国際社会と騒がれていて変えようとしていくのであればこのような根底に流れる「かわいい」「美しい」「若い」を賞賛する概念を払拭していく努力をするのが迫られているように思っています。

「美しい柔道家」というワイドショーをフジテレビでを今朝見て思わず書いてしまいました。顔で柔道を取るわけではないですし、誰もが努力をして強くなるのですもの。

 

親切と過剰親切の境目

困っている人には親切に。まわりの人の気持ちを考えて親切に。これらは当然のこと。お年寄りが乗ってきたら席をゆずるとか道に迷っている人がいたら声をかけて差し上げるとか、いろいろ私たちの身の回りにはできることがたくさんあります。

これは本当にすばらしいこと。生きて行く上で大切なことです。

しかし、先回りしてこれがあったら便利だろうとか、これをするのが親切だろうという、過剰親切はどうなのでしょう? おもてなし、という言葉が頻繁に使われていてその言葉の裏側に見え隠れしているのが過剰親切。

一時期、過保護とかそんな言葉もありました。それに近いものが最近見えています。

日本国内に住んでいると手取り足取りいろいろ親切にしていただくことが多く、表現は悪いですがぬるま湯に浸かっている気にもなります。これでは外国に出たら冷水を浴びることになるのではないかと危惧をしないでもありません。外国では自分の思うように行くことなどほとんどなく、それに向かってチャレンジできる人にならなくてはいけないのに、こんな優しい国の国民は冷水に対する免疫がなさすぎる国民になってしまうのではないかしら?

「優しく、親切に、温かい心を持って」とてもすばらしいことです。でも、やはり「過ぎたるは及ばざるが如し」と感じる今日この頃です。