編み物を始めるとなかなかやめられない私たち。編み物グループは約3時間をめどにレストランにお願いをします。
ランチ時に3時間も陣取られると迷惑なのはわかっているので前もって了承していただくんですよ。「ほかのお客様の席がなくなるのでお断りします」と言ったレストランはそれが理由ではなかったでしょうが、いくつかつぶれてしまったそうですよ。
図書館の会議室を使うのはくじ引きですから、1ヶ月くらい前にならないとわかりません。予定を前もって立てにくいし、参加者が減ってしまったとか。そこで、ある人が自分が行っている教会の一室を使えるように交渉して来たそうです。場所も便利だし、費用もかからないし、かなり先まで予約できるのでいいことずくめ。そこで数回、会合があったのですが、急にある人が
「私は教会での編みもの会には参加できない」と言い出したのですって。宗教上の理由だそうです。なるほど、熱心な信者の方ならほかの宗派の教会に足を踏み入れるのは勘弁ならないのかも。たとえ目的が編み物であってでもです。キリスト教徒一口に言っても様々な宗派がありますからね。いろいろと規律が厳しかったりするのでしょう。
友人を連れて日本に行ったときのことを思い出しました。明治神宮に行きたい、というので連れて行ったら「鳥居はぜったいにくぐらない」といって外を回って入って来たし、神殿には近づきませんでした。ほかの神様に対する礼儀はないのかしら? とちょっと不愉快に思いましたが宗教についての話はしない、というのが暗黙の了解のような国で長らく生活しているので口は閉ざしていました。
「これでまた、編み物会をする場所を探さなくちゃ、」と考えた人と、「いいじゃない。教会で編みたくない人は来なくていいのよ。来たい人だけでやりましょうよ」に別れたみたいです。
日本人はこの辺りが非常に柔軟というかあやふやですよね。そこが大好きですけれど。ま、いい加減という表現もあるかな? それに比べてアメリカは人種がたくさん集まっていることもあって宗教観は人によってまったく違います。だから、「え?」ということが問題になってしまうんです。これからクリスマスですが、キリスト教以外の人たちにとって政府機関の前にクリスマスツリーが飾られていることは勘弁ならないことの一つのようです。
こんにちは。
私はキリスト教が「国教」である国に住んでいるので
公式クリスマスツリーどころか国家の祭日祝日行事はキリスト教がらみ。
日本でいうNHKのRAIも通常の番組を中断しまくってヴァチカンその他のミサの生中継をします。
私のパートナーも含めて当たり前のように皆キリスト教のもとで学校教育を受けて育っています。
課外の学童保育も教会の管轄です。
イスラム系移民もたくさんいますが、彼らに対しても「比較的」寛大だったりします。
難民受け入れに関して寛大すぎて(ざるをえない)社会問題にもなっていますが・・・
そこで彼らの理解を得られないのは何を隠そう、私たち日本人なのです。
「神社でお宮参り、キリスト教(風)結婚式、仏教でお葬式」というのは彼らにとって「???」なこと。
今や私のネタになっています(笑)。
お国変われば・・・ですね。
こんにちは。
お国変われば、というのは本当にその通りですね。ここでは同じアメリカ国内でも場所によっても全然異なります。
確かに、日本人というのは柔軟というかいい加減というか確かに宗教に対してまじめな気持ち(?)で接している人たちから見たら「何といい加減!」と思われても仕方がありませんね。いろいろなものを受け止められるも言えますし、無茶苦茶とも言えないこともありません。そういう話はあまりさわらないようにしている、というのが正直なところです。(笑)