編み物のような人生

今日は,母の叔母の納骨でした。お経を上げてくださったお坊さん(こういう名称で良いものか,チト不安です)の一人が,感慨深げに「栃木の高等女学校に行かれた方、いらっしゃいましたよね。ぼくも栃木出身なので,よくお話しさせていただきました」とおっしゃるではありませんか。そう,私の祖母なんです。祖母と話したのは,きっとお若いころだったのだろうと思わせる年れいの方。

海外に住む私たち夫婦はときどきお墓のことを話します。「さて、どうしよう?」と。子供たちはこれから先,どこに住むかなんてきっとわからない時代が来るだろうし,私たちはどこで人生を終えるのか。。。「でも,死んでしまった方がわからないよね」と軽口をたたいて会話が終わります。

しかし,今日,お墓の前で考えました。そんな軽い感情ですまされるものではない,と。真言宗ですから,お墓の前の石を取り除くと骨壺が並べられています。それを見ながらこんなことを考えてしまったんです。

「あら,あなた,もう来たの? もう少しがんばって生きていたら良かったのに」
「あ,お母さん、久しぶりね。」
「こんなところでまた会わなくてはいけないなんて思っていなかったわ」

なんて会話がもしかしたら,お墓に新しい人(?)が参加するたびにかわされているかもって。なんていうのかしら,この下に入ったときに、故郷に帰ってきたような気持ちになるのかもしれないって。

そこまで考えたとき,思い出したのが友人の話.彼女はご両親の不仲に頭を痛めています。お母さんが「私が死んだら絶対に,お父さんと同じ墓には入れないでね」と言ったそうなんですよ。「そういわれても困るのよ。」と友人。「母の気持ちもわかるけれど,かといって母が先に逝ったら父が承知するわけないし」と困り果てていました。

彼女のお母さんはご自分のお母様がいらっしゃるお墓に入りたいとか。うーん,ご主人とものすごい不仲ならその気持ちもわからないでもない。。。あのように整然と並んでいる骨壺を見ると,本当にそう思ってしまいます。しかし,子供にそういうことを託すお母さんの気持ちもつらいだろうけれど,頼まれた子供はもっとつらい。見送ることだけだってつらいのに。

いや,ここで「もっとつらい」なんて言葉は使ってはいけないのだろうな。母親の立場と子供の立場,まったく違った感じ方をするのだから比べること自体意味がないんですよね。

私たちの人生って気持ちを編みながら生きていくみたい。あるパターンを選んで編み始めるのだけれど、それまで気に入っていた色合いが急にイヤになったり,選んだ模様がその太さの糸では美しさを出せなかったり,あげくの果てには目を落としてやり直さなくてはならなくなったり。色がイヤになったからと言って投げ捨てるのではなく根気よく編み続けてみたら,「あら,思っていたよりステキなものができたわ」と思えるかもしれないし,そうではないかもしれない。それを心から感じられるのは編み続けてきた本人だけ。プロセスを知らない他の人にはまったくわからない経過があるんですよ。

そして,最後に編み上がったとき、「あー、よかった」と思えるのか,「早くやり直せば良かった」と思うのか,これもその人次第。「あなたの方が絶対に幸せよ」とか,「私なんかねぇ..」と意味がないだけでなく,言われている相手を傷つけているかもしれませんよね。

人生が終わるときに,自分を一番愛してくれる人が次の世の門で待っていてくれるとか。。私は主人より先に逝きたいけれど,でも,主人一人を残すのはとても心配なので,ここは考えどころ。きっと,私のワンコたち、Jamie そして,元気だけれど寿命から考えて先にイヤでも逝ってしまうであろうMuffin がしっぽをぶるんぶるん振りながら待っていてくれるのでしょう。彼らがけんかしていないといいけれど。。。

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